2013年12月14日土曜日

新年は浜離宮恩賜庭園の放鷹術でスタート

 
鷹匠の1年のハイライトはなんといっても、1月2日、3日に開催される浜離宮恩賜庭園の「放鷹術披露」。将軍家の御鷹場であった地であり、諏訪流16代花見鷹師も、この浜離宮に住み、日夜鷹匠の訓練をしました。
当日は、田籠師匠、大塚鷹匠はじめ、諏訪流の門下生たちが、日ごろの訓練の成果を披露する大切な実演です。

 
新春の空に鷹が舞う!放鷹術の実演
  日  時  平成26年1月2日(木)・3日(金)*雨天中止 11時・14時(各回約1時間)
  場  所  内堀広場
  参加費  無料(入園料別途)


浜離宮恩賜庭園とは

潮入の池と二つの鴨場をもつ江戸時代の代表的な大名庭園。潮入の池とは、海水を導き潮の満ち干によって池の趣を変えるもので、海辺の庭園で通常用いられていた様式です。
旧芝離宮恩賜庭園、清澄庭園、旧安田庭園なども昔は潮入の池でした。しかし現在、実際に海水が出入りしているのは、ここだけです。浜離宮は、この潮入りの池や池や鴨場を中心にした南庭と、明治時代以降に造られた北庭とに大別されます。

 
この地は、寛永年間(1624~1644年)までは、将軍家の鷹狩場で、一面の芦原でした。ここに初めて屋敷を建てたのは、四代将軍家綱の弟で甲府宰相 の松平綱重。承応3年(1654年)、綱重は将軍から海を埋め立てて甲府浜屋敷と呼ばれる別邸を建てる許しを得ました。その後、綱重の子供の綱豊(家宣) が六代将軍になったのを契機に、この屋敷は将軍家の別邸となり、名称も浜御殿と改められました。
以来、歴代将軍によって幾度かの造園、改修工事が行なわれ、十一代将軍家斉のときにほぼ現在の姿の庭園が完成しました。(東京都公園協会HPより転載)




庚申堂鴨場
鴨猟の方法は江戸時代は鷹狩りで、明治以降は叉手網(さであみ)となります。
鴨場が利用されたのは冬鳥が飛来する晩秋から翌年の春先まですが、以下のように鴨等を獲りました。
 1 元溜りにはおとりのアヒルが200羽あまり放されていました。秋から冬にかけて野の鴨が元溜りにおりてきます。

  2 板をたたく音が響き渡ると、餌が引堀に蒔かれます。餌が食べられるので、アヒルが引堀に入ってきます。アヒルの後を野の鴨も後をついてきます。野の鴨はアヒルの後をついていくという習性があるのです。必要な数が入ったら、引起し網で引堀の入口を閉めます。

  3 小覗で鴨の様子を確認し鷹匠やお客様に手信号で知らせます。

  4 鷹匠とお客様は引堀をはさむようにして配置につきます。

  5 小土手に片足をかけ、びっくりして逃げようとする鴨を叉手網(さであみ)で捕獲します。

  6 叉手網をかいくぐって逃げる鴨は鷹匠が放った鷹が捕らえます。逃がすと、この元溜りが危険なところであることを仲間に知らせてしまうので、鷹の役割はきわめて重要でした。

  *アヒルは板をたたく音で引堀に入ってくるよう訓練されています。
 *大覗には元溜り周囲で水鳥を狙っている野生の鷹を捕獲するための仕掛けがありました。
 *鴨場が使われた離宮時代は園内に鷹部屋や鷹師宿舎、鷹匠小屋、調理所などがありました。
                                                   (浜離宮恩賜庭園HPより転載)

小覗

 ここには板と木槌があり、カンカンを音をたてるとアヒルや鴨が引き掘にやってきます。


 引き掘
ここに集まってきた鴨をお客様が叉手網(さであみ)で捕獲します。
捕獲しそこなった鴨を鷹匠が鷹を使い捕まえるわけですが、
鴨が逃げてしまった場合には、この池は危険だと仲間に知らせて
しまうために、鷹匠の役目は重大だったようです。

0 件のコメント:

コメントを投稿